一時休止

以下のブログは、2019年の下書きに残されていたもの。

 

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私のこの半年間は、息を付く間もなく嵐のように過ぎ去っていった。

 

私はこれまでの20年間、ことあるごとにブレーキを踏んで外の世界との遮断を選択してきた。誰の顔も見たくない、誰の声も聞き入れたくない、とただただ感情的に泣きながら布団を被るのだった。でもいま思えばその瞬間わたしは自らが抱えた負の感情に真っ直ぐで、真っ向から向き合っていた。全力で自分の中にある嫌な気持ちを受け止めていた。それがなかなか難しいことなのだと私はこの半年間で知ったのである。

 

 

自分の顔が嫌いで外に出られなかったあの日々も決して無駄じゃなかったということです。

 

人を好きになるのに見栄は要らないということ。

 

誰もが誰かを傷つける権利など持っていないこと。

 

あの人もきっと

 

初めて泣きながら会社から帰った。

 

女になんか生まれなきゃ良かったと思うことが最近多い。それと同時に男を気持ち悪いと思うことも。

 

何故か

女にだけ課される行き過ぎたルッキズム

何故か

もう1人の同期ではなく私に振られる全ての雑務にも

心底ウンザリしている。

 

自分を守るためにその場は全部傷ついてない振りをした。最悪。

 

こうして心が死んでいくのだと思った。こうして本当に死んでしまう人がいるのだと思った。

桜ひらく季節

 

いつだって自分の気持ちを文字に起こそうとするのは弱っているときで、だからこそ創作意欲は負のパワーが根底にあり芸術家や作家ほど自殺率が高いんだと思います。

 

他人に期待をしなくなったな、と最近感じることが多い。かつて天才子役として名を上げた女優さんが言ってました。「『信じる』ってその人自身を信じているのではなくて、自分が理想とする、その人の人物像に期待してしまっていることなのかなと感じて、だからこそ人は裏切られたとか、期待していたのにとか言うけれど、別にそれは、その人が裏切ったとかいうわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけなんじゃないかな。」と。16歳でその考えに辿り着くなんて、どこまで賢い人なんだろう。

 

だから他人に期待をしないことって寂しいことだし冷たい人に思われがちだけど、ある種の自己防衛でもあると思う。

 

もうひとつ。人と人が長く関係を築くためのコツって、互いが自立していること、と結局は思いやりだなと感じます。どちらかが欠けているとやっぱり難しいんじゃないかな、私も成長しないとね。

 

人は1人では生きていけないので、私も心の病気と向き合いながら社会参加をする必要があって、その上で周りの人たちと上手くお付き合いをしなきゃいけない。他人への期待はほどほどに。幸せにしてね、と言葉でこそ言うものの「絶対に幸せにしてやるからな、自分」の意志で生きていく。

一周忌

いま、そちらでどんな生活を送っていますか。毎日笑っていて欲しい。みんなあなたの笑顔が大好きだったから。私は亡くなった人のことを思い出すと天国でその人の周りに花が降るというお話を信じています。あなたは毎日たくさんのお花に囲まれているのでしょうね。どうか安らかに。

どうか、安らかに

彼は一体どんな想いでこの世を去ったのだろうか。その日になにか引き金となるような出来ごとがあってしまったのだろうか。

或いはいつの日かに、この日に、と決めていたのだろうか。

私達にとって彼の死の報せは突然であったけれど、もしも後者なのであればそれは決して急なことではなく緩やかに遂行された自殺だ。

 

下手な憶測はしない。残ったのは彼が確かに生きていたこと、自らで死を選んでしまったこと、それだけ。

 

悩み抜いて選んだのなら、もうその選択に対しては後悔していて欲しくない。もう全てのしがらみから解かれたんだと安らかな顔をしていて欲しい。

バグってる

 

私の部屋だけ朝と昼が上手く来ない。だから自己嫌悪に駆られて泣く。ベッドの上のティッシュの山。エロいことした後みたい。体液には変わりない。

 

このバグりまくった生活がみんなと同じように高校生活を出来なかった頃を思い出させる。ずっと家にいた。何もしないでとにかく家にいたあの日々。やっとこの1年間でギリちゃんとしてる風をやってたのに自分の意思じゃないところで壊された。やるせない。

 

しんどいって言った。お前のせいじゃないって言ってくれた。私の部屋がバグってんのは私のせいじゃなくていまは地球がバグってるだけだからって言ってくれた。ちょっと安心した。

 

苦しくないと文章書けないから残しておきます。私が生きた証を残す。今日も生きてるみんなえらい。地下アイドルもそう言ってた。